2011年9月21日水曜日

ame

小さい時は、アメーバ状でした。それで、お祭りの日に山車の後に皆ですわって、太鼓を叩いた。大きな太鼓は、大輪の花の、大きな葉のようだった。叩いているうち、うしろにころりと、転がり落ちた。山車は前に進んでいった。だけど。アメーバ状だったから、痛くなかったし、特に覚えてもいない。覚えてないものは、覚えてない。
そうして、大人になった私らは、ゾルゲル音楽をつくった。アメーバ状の人びとを保存して、いつまでも楽しめるように。湖に垂らしたり、フラスコに入れて吹いたりする。私らはうっとりして、時に大笑いして見ている。それは水面をたゆたうように広がり、水中に垂れゆくのか垂れないのか、微妙なところで留まる。留まり続ける。いつまでも続くイントロダクションのように、空間を満たす。

奏でているのは、彼がひとりで奏でている。ゾルゲル音楽を作ったのは彼ひとりだろうけど、それを鑑賞する人がいてそうなったのだろうから、私らが作ったということにしている。
奏でている間は、何かゾルゲル状のものが、あらゆるところから垂れている。垂れ続けている。それは彼の装置の一部で、じっさいに音に関係しているのかはわからないが、繊細なところで反響などに関係しているのだろう。見た目には彼が作ったゾルゲルの国があって、その中の威厳のない王様という風情である。
暗闇の中、ゾルが静かに垂れている。床で彼は今度は、ゲームボーイを音響に繋げて音を出している。そのあとクナイフという楽器を吹いている。ぴゅ、ぴゅうという音が、たゆたう。大きなフラスコに、マウスピースをつけたようなガラスの筒で、水が入っている。音はあとは、瓶に入れたゾルゲルをぷぅと吹いて、マイクで増幅したり反復させたりしている。時々で音やモノが増えたり減ったりする。

クナイフを作った人は、クナイフという。彼女は歌手で、ガラスの工作もしていた。ゾルゲルプロと同じくらいの背丈で、ある時酒を飲んで夜が明けて、私が電車で先に帰ろうとすると、2人で見送ってくれた、にこにこと手を振り続けてくれた。本当に素敵な2人だけど、今はゾルゲルプロは男一人になっている。何があったのかはよく知らないが、今でもクナイフはクナイフを量産しようとしたり、サポートしているらしい。

——ゾルゲルプロの「プロ」は、どういう意味ですか
3つあります。プロフェッショナルの「プロ」と、プロダクションの「プロ」。それと◯◯◯◯◯◯◯◯の「プロ」です。

——ゾルゲルプロの一日を教えて下さい。
朝8時ごろ起きます。9時からバイトで、17時に終る。18時ごろ帰宅し、2時間寝ます。起きて、ゾル作業をします。だいたい1時か2時まで。こうやって夜寝ると、目がさえるのです。バイトの後、時どき夜遊びにいくと、とても眠いです。

——座右の銘は
私は言葉を信じません。

2011年9月13日火曜日

utsurobune


サクー、何か、有名な寺があって、お祈りをしに沢山の人が来るからその名前なのではないかと、私は思います、と、通訳のアビンさんが言った。
小さな、交通の便の悪いところで、カトマンドゥからバスで1時間か2時間。その日初めてバスに乗って行ったが、バス乗り場に着くまで1時間かかった。それは方向感覚の無さのせいでもあるが。
道路ぎわに色々バスが停まって少年たちが何か、乗り出して様々に叫んでいるからそのどれか、かと思い「サクー?」と一人ひとりに尋ねて行くと誰も「違うよ」と応える、彼らも忙しいから、どれがそのバスなのかなどど教えてはくれない。忙しくないのは旅人と子どもくらいか。大人たちは仕事がなくとも、雨宿りをしながら茶飲み話に興じている。そこの何か、祭壇のようなところで。
いけない、ペンが走っていた何故か。そうじゃない、居間のことを書こうと思っていた。
ある人が本の中で、芸術はもう平面を抜け出し、3次元も抜け出し、そこらここらに散らばっている(赤瀬川『藝術原論』より引用予定)、といつか書いていたけれどその時は散らばったカケラが路上に舞っていたのだった。都市の無意識。それをカメラと言葉で、捕獲したのだった。
今はそれが、つまり芸術のカケラが、ネパールのひなびた村にあるように感じた。どうも、まだごく僅かだろうけれどの昨今の人びと、会って来た人たちのことを考えると、そのようにしか思えない。今のところ。
前置きはいらない、だからこれまでの段落はいずれカットされるだろう。しかし芸術、これは言葉として不自由。言葉はそもそも不自由なものだけれど、もっと自由な形象がされていいはずだ。しかしそれが、言葉ではとらえられないもの、つまり。
彼は彼の居間を作った。居間は3つの部屋に分れている。どれも窓や壁などなく、路上に開け放たれている。開け放たれたところには竹で編まれた頑健なテラス。部屋の内部はすべて水色で塗られ、3つを分ける壁は白かった。上の階は未だ建設中で、彼らの物置になっていた。


右端の部屋、壁に楽描きが沢山貼ってある。きっとそこにたむろし戯れる子どもたちが描いたのだろう。抽象的な葉っぱのようなものや、何か文字のようなもの、もとよりネパール語を介さないのでわからないが。
床には、円いイスのようなもの。それでもう一つ、藤椅子のようなもの、ぼろぼろでアヤシいが、子どもがいつも座ったり転がしたりして遊んでいる。
子どもの遊び方は、常に原初的なもの。ボールがあれば、ボールの投げ方を学ぶ。こうやって、ボールを、投げる。こうやって、受け取ります。こうやって、蹴り飛ばし、こうやって、当ります……。
真中の部屋、特に何もない。けど彼らは何か作業をします。イモを焼いたり、ニンニクを干したり、何か書いたり、機械を触ったり。だから子どもは入りづらそうにしている。

、、、、、

「(向って)右側の部屋。壊れた傘、子供用のサリーのようなもの、落書きされた紙切れ(植物、車、仏のようなもの、ミッキーマウス等等が子どもの手で描かれている。」
おじさんが、私の手元をずっと見つめている。色黒で、帽子を被っている。瞳は灰に薄青、とても美しいようである。充血している。何か、コトバを教えてくれた、ノートの左上に書いてもらっている。書かれ続けるままになっている。
「また、壊れたキレイな傘。また、落書き多数。ネパールのカレンダーのようなもの。等々が壁に貼ってある。割と整然に貼られている。少し、インテリアのような美しい調和がある。ここは子ども部屋のようになっていて、子どもはとりあえずここに集まる。
犬も来た。子どもは4人。それぞれに、壊れた藤椅子にすわったりイスを尻にあてて歩いたり、その上に乗ってくるくる回ったり、何かボードゲームをおじさんに教えてもらいながら遊んだりしている。
あと、棚のようなものに、不通のデンワや錆びて真黒になった地球r儀、錆びた箱などが置いてある。あとは、カゴが少々。これは彼らが物々交換(もしくはただもらう)に皆で繰り出す際に背負っていくカゴだ。」
とりあえず、子どもがどんどん膝や手足に集ってくる。まとわりついたり、慌ただしい。これが普段の仕事中だったら、何かほのぼのしていて楽しいが。
彼らはここで「居間」をつくっている。居間はネパール語で「バスネコタ」どこの家にもあって、寝そべったりご飯を食べたりする。豊穣な暇を、人びとに提供しているというか、暇な人たちをとにかく集めている、とにかく集めている。老人子ども、お母さん、こうしてここにいる感じは、どうもゆるやかで心地いい。
(シャッターが開く、店が始まる。開店時間は12〜18時19時。店なのだ。)
ただ人が居るだけで、竹のテラスに座っていて、人や鴨、犬なんかが行き来している。
居間3連の右となりは何だろうか、ゴミ捨場のようになっている。トリがいつも居る。
真中の部屋では、通訳のアヴィンさんがおばさんと話し込んでいる。何を話しているかは全く分からない。アビンさんは先ほどまで、何か大きい記録帖のようなノートに、書き物をしていた。
その部屋は作業場のような感がある。子どもはあまり入ってこない、トウモロコシやニンニクを吊るして干したり、鍋を火にかけて料理をしたりする。部屋の片隅にはドアがあり、その中の物置、バックヤード、は唯一外界から隠されていて、電子機器などがある。

、、、、、

ここはどうですか、他と比べて。潤さんにたずねる。
彼はずっと、名刺大のカードに何か絵や文字を描き付けている。村の各所でもらったものを描いて、大きな地図に貼っている。

、、、、、

他のスタッフは何処に行っているのだろうか。物々交換か、それとも何か、何かバケツを持ってあっち(左手の方)からやって来た。奥の方の広場へ行き、出したものを広げ始めた。洗濯だろうか。
左端の部屋には、服が沢山置いてある。ここが一番店と言えば店っぽい。が、何か持て余しているようだ、店にしようとしてうまく機能していない、あまり使ってないらしい。真ん中に足ふみミシンがあって、そこによく犬が寝そべっている。
右端の部屋に、念願のソファが入った。入った分、子どもが遊び場を無くすんじゃないかと気になるが、彼らは上手いことまた流れていくのだろう。ソファが入った分だけ外に。
「こう、人びとがいつも、求めて止まないもの、生活というものの、原型? 仮想生活という生活を、ひとつ面白みとして人びとに提案しているのか、彼らの生活そのものの時間を、賭して。
どう伝えるか、この新しいものを。彼は日誌のような、記録のようなものをよく作品に用いている。表現はその場で起きている。ライブの生活そのものの中で。その場を上手く、残そうとしている。そのような形で。
だから今回も、あの日ネパバイリンガルで書かれた日誌や、交換したモノを場所に紙で貼っていく地図、そしてLivingroom in Nepalそのものを映し捉えた写真と映像とで。
私はまず、livingroom - バスネコタを理解することから始めねばならないが。
バスネコタ、とただそれだけでそれだけのものなので、何だろうか。装置、机上の、もしくは舞台の、もしくはアートとしての、、、それらを超えた、現物の生きる装置とてあるlivingroomを、このサクーという村に、置いた。そうして日々、出合いなり対話なり、彼らの『仕事』としての物々交換[彼らがその名目として補助金をもらった文化交換などではない、潤さんのリビングルームというそのものの、ここでの発露]。」
ネパールには金は無いのだろうけど、どうしてか豊かな時が流れているような。水が多い。そこまで暑くない。植物生い茂る。。。インドに比べて余程やはらかなこの人びとの物腰が、証拠といえようか。
「しかしあのバスネコタの居心地は格別だった。村の人たち、子どもらもきっと、あの空白のような、いや何かようわからない居間空間に、安らいだ、楽しんだのじゃないのだろうか。?」
「特に、変わったことはしていない。ただ、新しい日常、生活を、現わしている。普通なのか、何だか。」
居間、私のうちにはない。ただ一人で、殺伐としていて、人はそうそう、集まらない。まあ、ふたりの時もあるけれど。
彼らはその中で(借りてきた器具で)食事をし、チアをつくり、飲み掃除をし、子どもと遊んだり、大人と会って話したり、次の動きについてミーティングしたりする。たまに、お婆さんが3人ほど集まって、そこにある食器でチアをつくったりしている。大人が竹のテラスに寄りかかり、世間話をしている。そういう時、それは特に「居間」らしく思われる。そこにある、居間。犬も寝転んでいる。
ちょうど3週目が終り、限られたひと月の最後である4週目に移る過渡期に私は居たが、そのように至って「普通」の明け暮れもしながら、彼は、どうこの居間をクライマックスに持っていくか、悩んでいた。だから、居間にあるもの、これまでの仕事で得てきた品々を使って、仮装行列を作ろうとしていた。その村に永く続く、お祭りの行列に対抗するように。
1日に数回、バスネコタの宣伝、そして品々を集める物々交換のため、彼らは町を練り歩く、一周する。
「ジャンマー、ジャンマー」「サッター、バーター」「バスネ、コタ」「……」「…」
と節をつけて呼びかけながら。子どもたち、時に大人、お母さんなど交えて。
枠内で動きつつ、村人をあっ、と言わせることが出来るか。日本人がヘンなことやってるな、と興味半分で来られるのではなく、単純に面白い、超えて魅きつけることを、考えていたのだろう。
しかしlivingroomの基本は、日常を過ごすこと。新しいそれでありながら。
そういった落ち着いた「居間」らしき空間・時間は、たしかに村人らを巻き込み作られ始めていたように思える。それを、こう一種非日常的なやり方で「仕事」を拡張することで壊してしまいやしないか。「居間」づくりの中心の一人である山口さんがそう反論した。

その2

昨年の夏、ネパールに居た。五日間ほどだけれど。
秋のある時、岐阜に仕事で行った際、河で、知り合いの画廊の人が、若い人を一瞬、紹介してくれた。その時は名刺を交換しただけ、よくわからなかったけれど、かっこいいデザインでしれっと、「・・・八雲事務所」とうしろに書いてあった。たまに名刺の整理をしていると目について、うん、シャレてるな、と思っていた。
彼のことなど想い出さない日々が日々、日々と繰り返すうちに、6月になった。
日、郵便物の中に、ひとつ目についたものがある。爽やかな、陽があたる白い建物、ひとり、あるいは数人、人びとが床にたむろしている。遠景の地面でも、何か人びとがたむろしている。建物の上には旗がはた、としていて、白い鳥が残像のように舞っている。
あれ、これは何と素敵なチラシか。ひらくと「Livingroom in Nepal」とある。あや、彼のことを思い出した。
一瞬しか会っていないので顔は出てこないが、いく分か確か、もっさりしていた。だから、こう、シャレたものを創り出すのにあるギャップが、引っ掛かる。引っ掛かった時点で、行くことは決まっている、行くことばかり思いがつのる。そこに行ってふらふらする図も浮かんでくる。折しも仕事は多忙に多忙で、休憩に外をふらつく度にいつか旅したインドの路上などが脳裏を過ぎる、引っ掛かった時点で、何か決めていた。ヨーロッパや南米ならまだしも、ネパールは射程圏内だ。
1か月、2か月、すると私は、ネパールに行っていた。夏休みの一週間、杭州の乗継ぎ便で、面白いものって一体何なんだか、何処にあるのか、そう問いてばかりいた私に、それは確かに面白いものだった、ようだった。
もちろん、ネパールにもとても、行きたいのだった。いつかインドにひと月居て以来、仕事が忙しく厭になるといつも、インドの何もすることがない旅人の、景色・時間が幻視され、心の中でああ、行きたい、と呟いていた。
夜なかの路や知らない路地などに、よく見出された、しずかな時間のあるところに。
20余時間ひたすら走り続ける列車、バス、汚い湖のほとりにたむろするインドの若者、仲良くなった不良の画学生(チェタン、といった)に連れて行ってもらった激レアな湖、ガンガーのガート、饐えたコンクリートの陽のさし方、沢山の犬。日常日ごとに暮らしていると、そこここの景色・場面にそれらを連想し、思いにひたる。
ところで最近、内田百閒の起床してから、仕事にかかるまでの時間のかかり方について、よく気になっている。詳しい内容は各作品に発見してもらえるが、起きてからかれこれ3、4時間、いやもっとかかっている、居方をととのえ、仕事にとりかかえるまで。そうしてその手順は何があろうとも崩すことはなく、たとえば何かパーティに出席する時でも、ああ、遅れていく、、、とあせり、あきらめ、残念の思いをかかえつつも、ただただ、身辺の整理?身支度に、没頭している、
もちろん、病気があること、また決して書かれなかった諸情況など、関連があるのかもしれないが、ちょっと長過ぎるという気がする。そこに何らか、秘跡がある。※戦後しばらく、ほったて小屋に「しゃがんで」いる頃の、起きてからのあれこれは、詳しく書いてある、それに似たようなことをしていたのだろうか。
ということを、最近つらつらと考えていたので、あの時間とこの時間は、何かもしかしたら似ているのではないか、という気がした。
123.5メートルのドラえもん。
夢を反芻する、仕事を整理する、昨夜書いた原稿を推敲・校正する。整理に始まり、机の移動、蕎麦を一枚、身辺の道具を手入れ、鉛筆の配列、吸い殻の整列。

、、、、、

だから、休みに入る2日前くらいか、数件の航空会社に電話して、ネパールに行くチケットを取った。
1日、杭州で過ごした、ここは言葉が全く通じないところで、何が何やら分からぬままにてきとうに宿をとり、夜ふらふらとさまよい、次の日も昼さまよい雨に降られ天を眺めたりしながら日を過ごした。
そこのところは割愛してつづけると、ネパールの地にようやく辿り着いたのだった、夜。
とりあえず客待ちのタクシーに街を案内してもらって、着いたのはPilgrims...とかいったホステルだった。
地に着いて街に出て、タクシーの運転手が「悪い奴ばかりだ」「・・・」「・・・」とテキトウな嘘ばかりつくのを聞き流すまま、もうインドをふらついていた時間がそのまままた始まったようで、嬉しくなった。
しかし、何が、嬉しいのか・・・。
彼とはメールで行きます、とだけ告げて、ネパール着いたから今日行きますと、次の日の朝、メールをした。
少し街を歩くと雨がさんさらと降っていて、次第に強くなってきたから歩き回って傘屋を探し、トレッキング系の店で頑丈そうな折りたたみ傘を買った。
それで午後とりあえず、タクシーで向った。サクー、という村。1時間か2時間くらいか。
運転手が何でサクーに行くんだ、観光案内してやるよ、と何度も言うけど私は知り合いがそこに居るんだ、過ごしているから会いに行くんだと何度か告げて分かってもらい、途中ふと停まったところでサッカーボールを買った。
ネットでちらり見た彼の「作品」のそこでは、子どもたちがわらわらと、遊んでいるようだったから、お土産に、と。
村について少し行くとグリーンのTシャツを着た人が竹を工作している。彼がそうだと直覚する。そこの内容は、写真や映像、そしてその頃居た自分が書いたノートに詳しい。くわしいはずだ。
とにかく不思議と居心地がよくて、そこにだらだらしていた犬、と同じようにごろごろだらりとしているばかりだった。そして数日後帰り路(素敵な通訳のアヴィンさんが送ってくれた)の車のなか、彼と話していて「新しいもの、じゃないですか、アートでもない、NPOでもない、文化交換でもない、こうひとつ、あなたの装置を街に仕掛けて、あなたの生活を賭してというかそのままに使って、というか、だから伝え方も新しくこさえないといけない。。。といったことを話した。そうしてまだ、伝えることを、出来ていない。
、、、、、
3か月、4か月、クリスマス・イヴ。彼と福島新地でまた会う。彼は仮設住宅で生き生きと何かしている。私はまた、ただ見ているだけ、足湯があって、気持よかったりして。
数回それまでに、彼に会おうとしたが、間が、会わなくて? 会えないまま。
何かまだ名付けられないものをつくっている現状。
そのつくられているもののただ中にいて。
、、、、、


「・・・」

ある人が書いたそういう小説があるけれど、それは美しくまとめられたある村の、ハナシ。その言葉がふと、妙に気になって、本を探した。すると、ちょうど同じ時間、届いたハガキに「虚ろ舟」とあったが、何か展覧会の知らせだった。こういうことがあると、何か感じてしまう、が、よくあることでもある。







2011年9月12日月曜日

ああ、それ

と言う間もなく、時が去ってしまう。仕事が佳境になると、2週間くらいぶっとんでしまう。身動きとれず、呼吸もままならない。しかしまあ、やってる間はそれはそれで、悪くないから、いいんだけど、
せっかく勢いで持って進んだ事事が 止まってしまう、寝てしまう。

だからどうしたいんだ、ってわけでもないけれど、、、